アイリーン


 アイリーンはアグネスより5才上である。香港では1968年ごろ女優として映画デビューを飾った。17才の頃である。自分のTV番組を持ち、また、雑誌の表紙を飾るほどに、香港での評判は高かった。主な出演作品に「三燕迎春 Three Swinging Girls」('68)、「桃李春風 Dark Semester」('69)、「洪拳與詠春 Shaolin Martial Arts」('74)、「阿福走天涯 The Stupid Salor, Ah Fook」('75)がある。


 1971年春、アイリーンは演技と歌の勉強のために日本の地を踏んだ。オールスタッフに所属し、レコードはワーナーパイオニアと契約した。デビュー曲は「恋の夜来香」だった。21才の頃である。しかし、香港での人気とは裏腹に、思うように人気が出なかった。その後、「花占い」、「薔薇の誓い」の2枚のシングルを出すが、やはりヒットにはならなかった。女優として「花は花嫁」などのドラマにも出演していたが、1972年、アグネスが日本デビューするのと前後して日本を去った。たった2年の短い日本芸能生活だった。だが、相変わらず香港での人気は高かった。1973年の時点でも、日に11本のドラマに出演していたほどであった。
 1971年ごろ、アイリーンたち陳三姉妹は美人姉妹ということで、香港では有名だった。香港のジャーナリズムが、アイリーンを「美」、ヘレンを「実」、アグネスを「純」と形容していたことはよく知られている。


 写真で見る限り、確かにアイリーンは美人である。シャープな印象を持つ彼女はさぞかし香港の銀幕に映えたであろう。しかし、日本ではそうならなかった。
 アイリーンが日本でレコードデビューした同じ年、台湾出身の欧陽菲菲が「雨の御堂筋」でデビューしている。ベンチャーズの軽快なメロディーとパンチの利いたダイナミックな歌い方で、曲はたちまちヒットチャート1位に昇りつめ、80万枚近くの大ヒットになった。アイリーンと好一対である。


 1971年といえば、天地真理、南沙織、小柳ルミ子という、アイドル歌手の先鞭をつけた面々がレコードデビューした年でもある。歌謡曲の支持層が低年齢化に向かい、それにつれタレントの側への期待にも変化が出てきた。大人を感じさせる完成された「美しさ」よりも、幼さを残し親近感を感じさせる未完成の「かわいさ」が求められるようになってきたのである。この点でアイリーンは不利だったのではないか。こういう見方もできるのではないかとも思えるのである。
 振り返ってみて、アグネスの場合はそうした要求に見事に応えたと言うべきだろう。しかし、同じ路線を目論んで、優雅やチェルシア・チャンといったアジア系の歌手が続々デビューしたが、どの歌手もアグネスほどには大成しなかった。こうしてみると、アグネスには彼女らにはないプラスアルファがあったのではないかと思える。この辺は第16章で語られると思う。


 アイリーンの日本での活動経験は、しかしながら、その後デビューすることになるアグネスに、計り知れない恩恵をもたらした。プロフェッショナルの世界でまだ経験も浅い彼女にとって、しかもシステムの異なる日本で、うまくやっていくには適切なアドバイザーが不可欠であった。その点、アイリーンはまさに理想的な存在だった。アイリーンの経験、いい経験もいやな経験もすべてアグネスにとっては貴重なデータになった。アイリーンの日本での活動は決して無駄ではなかったのだ。アイリーンは自分の仕事のかたわら、アグネスのサポートを決意する。彼女の、アグネスの私設マネジャーとしての役割はその後、アグネスがカナダ留学のため、一時的にタレント活動を休止するまで続いた。もっとも、彼女にとってそれが本意であったかどうかは分からない。

 アイリーンは、その後テレビ番組のプロデューサに転身した。76年にアグネスがカナダ留学した際、彼女が付き添ったが、彼女もまた学生に戻ることを決意、シェリダン・カレッジでメディア・アーツを専攻した。その大学を選んだのは筆記試験がない、ということだったらしい。
 1978年に結婚し、現在は芸能界を引退して1子(男)をもうけている。

 残念ながら、私はアイリーンの曲をどれも聴いたことがない。機会があれば、ぜひ聞いてみたいものである。



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