少年アグネス


 この空間を作っていく過程で、「少年アグネス」というフレーズが頭にひっかかって離れないでいる。

 



 一体、「少年性」が何を指しているのか。実はうまく説明できない。

 「少女」が「女」に生まれ変わっていくその間(はざま)、
 一瞬、それはひょいと顔を出す。
 少女でもない、女でもない、そんな瞬間。
 脆く、儚(はかな)く、不安定で壊れやすいけれども、
 だからこそ、その煌(きら)めきはいっそう眩(まばゆ)い。
 そう、そんな瞬間。

 性とか、生理といった動物的なこととは一切無縁の精神的世界。セックスを超えたセックス。

 あるいは「恋の手ほどき」のジジ、あるいはまた「精霊のささやき」のみほ、そういった存在。

 いや、やはりうまく説明できない。

 



 以前僕は、「Lover's Blue」という、アグネスに対する一種のオマージュを作ったことがあった。
 恋する乙女の甘酸っぱい感情を表現しようとした。
 いま見返してみると、それは、恋に恋する少女が、大人になることを余儀なくされ、
 期待と不安がないまぜになった気持ちを、表しているようにもみえる。

 「Lover's Blue」で見せたアグネスの表情は、僕の心を締めつけてやまない。

 不安と畏(おそ)れと、かすかな希望。
 そんな思いを訴える瞳が、
 少女の面影を残す愛らしい顔のなかで、
 壊れやすいガラス細工のように危うげに、
 けれどもまっすぐに光を放っている。
 その光をうけて、僕はうろたえる。

 



 アグネスは一時期、自分のことを「ボク」と呼んでいたことがあるそうだ。
 なんとなく分かる気がする。
 彼女は、曲の世界にも「ボク」で登場する。
 たとえば、「Girl Friends」のなかの「朱色の夢」、「シャツとパンツ」。
 アグネスが「ボク」と語りかけるとき、
 僕はドキドキする。
 それは決してセクシュアルな意味ではなくて。

 彼女の詩のなかに、「Girlfriend になりたい」という詩がある。

/もし私が男の子になったら
 あなたは女の子になってほしい
 そしたら
 あなたの Boyfriend になれるから
 ・・・

 と綴られる詩に、それはいる。それはアグネス自身のようにも、「少年=彼」のようにも見える。
 「少年=彼」は詩集を抜け出し、アグネスと肩を並べる()。
 アグネスは、自分が創造した「少年=彼」になりきろうとしている。
 あるいは「彼=彼女」かも知れず。
  畢竟(ひっきょう)、アグネスが親しげに肩を組んでいる「彼=彼女」は、
 実はアグネスが作り上げた架空の恋人にすぎなくて、それはやはり彼女自身なのかもしれない()。
 「私=彼」は、再び詩の世界に戻る。
 「ただいま 私/BOYFRIEND 募集中です/・・・」ではじまる「私の COMMERCIAL」という詩()。
 しかし、「私=彼」はやがて姿を消す。
 「彼=彼」が現れるのだ。()。

 アグネスの心模様。

 



 澄みきった秋空に高くかかる、一片の絹雲のような声が、僕の心に届く。
 「ねえ、キミ。そんなところで何してるの? こっちに来て一緒に遊ぼうよ」
 その声は、無垢と純真を両の刃にした、優雅なスティレットのように、
 薄汚れ、堅く乾いた僕の心に、優しく突き刺さってくる。
 刃の痛みは、捨て去ったことに対する悔恨の痛み。
 捨て去ったものに対する惜別の痛み。
 無邪気という残酷さが、僕の心を打擲(ちょうちゃく)する。
 「ねえ、なにしてるの? 早くおいでよ」
 ごめんよ。僕にはもう行けそうにない。僕にはその橋はもう渡れないんだ。ごめんよ、ごめんよ・・・
 「早く、早くったら」
 少女の少年は、少し苛立ったようにまた声を放つ。
 その声に誘われるように、僕は橋に踏み出す。僕の心を占めるのは哀しみと恐怖。
 しかし、橋はすでにそこになく、僕は漆黒の川面(かわも)に向かって落ちていく。
 光を失った川。永遠の深みを持つ淵。
 最後の瞬間、僕の心をよぎるのは、少女の目。少年の瞳。そこを通して映る虚無。
 そして、暗黒。

 白昼夢。

 



 彼我(ひが)の淵に架かる希望と絶望。
 天と地の間(はざま)に「世界」があり、そこに少女は倒れ伏し、
 涙。
 魂の慟哭(どうこく)。
 それを不思議な目で見つめる、内なる少年。
 古びたテレビのように、それは二重写しになって。
 傍(かたわ)らを時の風が吹き抜けていく。
 風は少女の耳もとを過ぎる。
 天使の吐息にも似たそれは、
 悪魔のような嘲笑と憐憫と侮蔑を、彼女の耳朶(じだ)に叩きつける。
 震える少女。
 見つめる少年。
 少女は顔を上げ、彼方を見る。
 涙でゆがむその先に、かすかな光。
 その光が、やがてやってくるのか、
 それとも遠ざかっていくのか、
 少女には分からない。
 少女は少年を見る。
 少年は、少女を通して、
 過去と未来を同時に見る。
 少女は目を伏せる。
 はらはらと舞い散る涙。
 天と地の間に、それは無数の煌めきになって。
 悔いと、疲れと、諦めが、風花となって消えていく。
 あとに残った怒りも、やがて堅く、小さく結ぼれて、
 時の風の前に、乾いた白い砂となっていく。
 内なる少年は、少女を見つめる。
 少年の瞳の奥に、幻のような、仄(ほの)かな光。
 少年は、風に向かい立つ。
 そして内なる魂の叫びを解き放つ。
 少年の叫びは一瞬「世界」を揺るがし、
 あとは、かすかな木霊(こだま)となって去っていく。

 天と地の間に「世界」があり、そこにはもはや、誰もいない。

 



 冬のとば口(くち)
 夕暮れ
 神社の境内
 遊び戯れる子供たち

 遠くに、刻(とき)の音(ね)
 「もう帰らなくちゃ」
 「またね」
 「あしたも遊ぼ」
 「じゃあね、バイバイ」
 「バイバイ」

 鞠が転がるように走り去る子供たち
 ひとり残された少女
 「私も帰らなきゃ」
 走り出そうとする少女
 「・・・おうちは、・・・どっち?」

 立ちすくむ少女
 「・・・おうちは、・・・どっちだったっけ・・・」
 急に訪れた不安
 忍び寄る恐怖
 緊張にこわばる首を巡らす少女

 黒々と神社の森
 一陣の風
 舞い踊る落ち葉
 かすかに揺れる、錆びたブランコ
 遠くでまたたく常夜灯
 暮れなずむ空
 青から藍、藍から紺、そして闇

 「どっちだったっけ・・・どっちだったっけ・・・」
 いまにも泣き出しそうにゆがむ、少女の顔

 遙か虚空で、鳥の鋭い叫び声
 星の輝く空を背景に
 闇より濃いコウモリの
 無数の乱舞
 ざわざわと語り合う木々の梢(こずえ)

 「お母さん・・・お父さん・・・」
 2,3歩駆け出しては立ち止まり
 思い直して別の方角に
 繰り返しては、繰り返しては・・・

 そして、その場にしゃがみ込み
 両手で顔を覆う少女
 可愛らしい指の間から、こぼれる雫(しずく)

 遠くでまたたく常夜灯

 そこに佇(たたず)む少年

 



 少年は走る。
 彼方の光をめざして。
 わき目もふらず。
 一心に。

 はずむ息。
 流れる透明な汗。

 足もとに咲く草花。
 そこここに這い回る虫たち。
 少年によって、それらは踏みつぶされていく。

 少年は走り続ける。
 振り返りもせずに。

 少年は光に到達する。
 好奇と歓喜の入り交じる目。
 少年はその光に手を伸ばす。

 光はゆっくりと明滅する。
 ときには震えるように。
 ピンクからオレンジ。赤。そして突然ブルー。
 さまざまな表情の光。

 その光の正体がなにか分かった少年は、
 伸ばしかけた手を思わず引っ込める。
 困惑したような、途方にくれたような、そんなしぐさ。
 はじめて気づいたようにあたりを見回す。

 自分が駆け抜けてきた道を見る。

 



 「少年」もいずれ「大人」になる。
 冷酷な「時」がそうさせる。
 そして、
 「少女」は「女」になるのだ。




 

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