引退


 それは、「アグネス・チャン」という長い夢から、陳美齢が覚醒した瞬間だった。
このあとの約2か月は、彼女、陳美齢にとって単なる事務処理に過ぎなかった。とはいえ、夢の処理は思うほど簡単ではなかった。彼女の投げかけた波紋は、以外に大きかったのである。
 その年、1976年の東京はいつになく冷夏だった。しかし、アグネスと彼女を取り巻く周辺は、火がつくほど熱かった。

 



 1976年6月15日。アグネスは香港に戻った。
 両親と姉たちはアグネスを待ちかねていた。父、陳燧棠は言う。「そろそろ芸能界を辞めるべきではないか」

 家族会議が始まった。

 結論はなかなか出なかった。とくに母、端淑は引退には反対だった。「せっかくここまで築き上げてきたものを捨てるなんて」過去、困窮の中で、6人の子供を苦労して育ててきた彼女には、ここですべてをフイにするのは、あまりに忍びなかった。しかし、家族会議を重ねるうちに、折れた。アグネスは引退し学業に専念する。それも香港で有効な学士の資格を得るため、現在の上智大国際学部からカナダの大学に転籍する。カナダの大学は3年制のため、期間は1年間である。カナダを選択したのは、アグネスの長兄がカナダに住んでいたためだ。会議の結論はおおむねこのようだった。

 アグネスの引退は決まった。後はその時期だが、折しもその時、アグネスに関する契約がすべて切れていた(渡辺音楽出版社との契約のみが自動延長されていたらしい)。これを好機に、すぐさま実行に移すことになった。この間、アグネスは引退の件を伏せたまま、取材に応じ、18日~20日には、日本の新テレビ番組「新・二人の事件簿」のロケもこなしていた。

 6月25日、午後2時30分。香港のテレビ局CTVの記者会見場には、約50人の芸能記者が集まっていた。記者はすべて地元の人たちで、日本の記者は一人もいなかった。集まった記者は、CTVが7月4日に放映予定の”ザ・ベスト・オブ・アグネス”の内容紹介だろう程度に考えていた。進行役のCTVプログラム・マネージャー朱奇才に伴われ、アグネス、母の端淑、姉のアイリーンとヘレンが登場した。そして、アイリーンがおもむろにアグネスの引退とカナダ留学を発表したのである。
 記者会見場は騒然となった。次々に質問が出る。質問が、「なぜ日本の関係者や友人に黙ってこの席で発表するのか」に及ぶと、アグネスは涙ながらに、「日本で発表したらとめられるのはわかっていました。それにファンの人に悪くてとてもいえなかった。契約のことはいっさい父と姉まかせですが、引退は家族会議にはかって全員一致でこの結論を得ました」と、答えた。
 この突然の引退発表は、翌26日の香港各紙に、トップ扱いで一斉に取り上げられた。その報は概して好意的で、カネに流される生活から敢然と真剣な生活に戻った、というようなものだった。その第一報が日本に届いたのは、その日の午後のことである。

「そんな、バカなっ」所属事務所の渡辺プロは真っ青になった。まさに寝耳に水、青天の霹靂といったところだった。報道自体を否定する関係者もいた。しかし、なにぶん遠い香港のことで、しかも記者会見に参加した日本人記者が一人もいないとあって、憶測含みの地元新聞の記事のみが唯一の情報源だった。
 ともかくも、それらの情報によれば、引退の理由は、20歳になったこと、日本の上智大学で学んだ心理学を、9月から新学期のはじまるカナダで続けたいこと、日本は税金が高く、仕事をしても収入の約85%は税金に持っていかれてしまうこと、などである。また、撮影がはじまったばかりの新番組「新・二人の事件簿」については、「交通事故で死んだことにしてくれてもいい」と述べたと伝えられた。また「みんな、まもなく私のことを忘れてくれるでしょう」と述べたとも伝えられた。
 これらが、関係者を混乱に陥れたのは想像に難くない。なにしろその時すでに、11月までのスケジュールがすでに組まれていたからである。当初の予定では、アグネスは7月28日に香港から戻り、その後8月4日~6日:梅田コマ劇場「アグネス・チャン・ショー」、8日:名古屋市民会館で公演、12日:TBS「歌のアルバム」、14日:TBS「8時だヨ!全員集合」、17日:フジ「君こそスターだ!」、29日~9月1日:日劇「アグネス・チャン・ショー」などとなっていた。そのほかにもラジオ、テレビ、ステージ、キャンペーン、ファンクラブの催しなど目白押しの状態だった。
 アグネス引退は、日本でも27日一斉に新聞報道された。

 渡辺プロでは、アグネスの真意を質そうと、松下治夫制作部長が26日、香港に電話を入れた。しかし、アグネスは、母と姉のアイリーンの3人で、すでに台湾旅行(フィリピンという話もある)に出かけた後だった。彼女たちは7月3日にならないと戻らないという。松村氏は、残っている彼女の父、陳燧棠と話し合うべく、ワーナーパイオニアの青柳哲郎制作部長を伴い、29日、12:30発のスイス航空で羽田から香港入りした。
 「アグネスの引退宣言の真相を解明し、なんとしてでも日本につれて帰る」意気込みで乗り込んだ二人は、陳燧棠に対して相当強硬な姿勢で臨んだようである。話し合いが続けられる中、30日になって二人は次のような提案をした。「アグネスはいったん東京にもどって、芸能活動をつづけるかたわら、上智大学へ再び通う。それに関し、関係者が最大の努力をはらって、通学や勉強にもこれまで以上の配慮をはらう。そして、1年後に正式にカナダへ留学する。しかし、歌手を完全に引退するのではなく、休暇のときには日本でステージやレコード活動をつづけてほしい」
 陳燧棠はこの案を飲んだ。ただし「妻も娘たちも今はいないので、私の一存だけでは決められない。すべては娘が台湾旅行から帰国してから、家族会議を開いて決めたいと思います。」と語った。この経過は、同日香港ヒルトンホテルで記者会見の形で発表された。席上、陳燧棠は留学に関し「1年間の休暇をもらって・・・」と語ると、松下氏が「1年間の休暇は困る」とあわてて遮るなど、両者の間で完全に調整が取られているとは言い難い印象を、記者の間にもたらした。また説得が功を奏する可能性は、の質問には、陳燧棠は五分五分だとも語った。松下部長ら二人は、彼のアグネスへの説得に期待し、強気に出た。3日後の7月3日、8月開催の梅田コマでの「アグネス・チャン・ショー」の前売りにゴーサインを出したのだ。売れ行きは上々であった。

 同じ7月3日、台湾から香港に戻ったアグネスは、空港で地元記者に対しこう語った。「引退は、いちど決心したことだから、変えません。日本の熱心なファンや、日本でできた友達のことを考えると涙が出ます。でも、それと私の決心とは別のことですから」
 その後、アグネスはいったんは自宅にもどったものの、すぐに新界にあるアイリーンの別荘に引きこもる。松下、青柳の両氏はその頃まだ香港にいたが、アグネスは会おうとしなかった。彼らは5日午後、日本にもどっている。
 アグネスが香港にもどっても、陳燧棠は彼女と話し合いを持つようなことはなかった。このことからも、陳燧棠は、日本側がなんといおうと、彼自身はアグネスの引退を撤回する気がなかったことが分かる。ただ、完全に引退させたかったのか、あるいは学業に専念させるための一時的な引退にするだけだったのかについては、はっきりしない。アグネスの著書を見ても記述に混乱が見られる。思うに、当初は完全に引退させ実業に就かせるつもりだったのだろう。ところが、日本側の予想外の強硬姿勢、それと日本での彼女の人気ぶりを改めて知らされるに及び、卒業後の復帰もやむなし、との気持ちに変ったのではないか。もっともこの時点でのアグネスの気持ちは、完全引退以外のなにものでもなかったようだ。[引退発表後。香港にて

 7月7日、午前10時。その前日再び香港入りした松下氏は、アグネスとの最初で最後の直接交渉に入った。だが、アグネスの意志は固かった。交渉は不調に終わった。ただ、渡辺音楽出版との契約が生きていたため、それをタテに、松下氏は次の2つの条件を出し、最終的に了承を取りつけた。
(1)さよならコンサートを開くこと。
(2)年2回、ロサンゼルスでレコーディングセッションを行なうこと。
 今にして思えば、ロサンゼルスでのレコーディングを認めさせたのは、日本側にとって大成功だった。このことは、日本側スタッフとのコンタクトを継続させ、日本のアグネス・ファンに、留学が一時的なものであると確信させて、卒業後のカムバックをうながす動機の一つとなったからである。
 同日夜、あとのことを父に託したアグネスは、アイリーンを伴い、ロンドン行きの機上の人になった。空港には、別れを惜しむ香港のファンが大勢集まっていた。
 一方松下氏は、9日午後帰国し、記者団に交渉の経過を報告した。この発表では、引退が一時的であることが強く示唆された。

 さて、この引退劇の特徴は、最初から最後まで本人が日本に不在だったことだ。また引退の理由も、学業に専念する、だけでは当時のマスコミを納得させられなかった。いきおい、憶測が憶測を呼び、さまざまな噂が飛び交うことになった。香港からの報道のほか、例えば次のようなものである。
 


 7月も下旬になって、さよならコンサートの日程が決まった。当初予定されていた梅田コマの「アグネス・チャン・ショー」は5日、6日の2日間に短縮して「さよならコンサート」に変更された。4日の公演は、その前、1日から3日に行われる予定のキャンディーズの公演を1日延長することでその穴を埋めることになったらしい。7日は東京にもどり、郵便貯金ホールで、8日は名古屋に飛び、名古屋市民会館でそれぞれコンサートを開く。いずれも昼夜2回の公演である。

 1976年8月4日。6月15日に香港に帰ってからちょうど50日目のこの日、アグネスは午後3時20分着のパンナム機で、羽田に元気な姿を見せた。待ちかまえていた約80名の報道陣とやじ馬にもみくちゃにされながら、空港近くの東急ホテル別館ロビーに設定された記者会見場に赴いた。
 席上、松下氏から経過説明があったあと、いよいよアグネスが話す番になった。

 ここからは、アグネス自身に語ってもらおう。以下は、8月6日、当時のテレビ番組「スター千一夜」(フジTV)で放送された、この記者会見の模様で、斜体で書かれた部分が、彼女自身の言葉である。実質10分強の放送のため、当然会見のすべてではない。会話調は一部筆記調に修正し、明らかな言い間違い以外は、なるべく忠実な記述を心掛けた。文中の( )内は、理解を助けるため筆者が附したもので、放送された番組にはなかったものであることを、お断りしておく。

 えと、みなさん、こんにちは
 そして、この前香港で、あの、引退の発表して、今こんな大騒ぎになって本当に申しわけなかったと思うんです。で、自分もこんな大きなことになるとは思いませんでした。
 でも、ほんとに、私は思うんですけど、あの、香港いれて、私芸能界入ってからもう7年ぐらいたったんです。それで・・・、今、少し引退するっていうのことは、私芸能界入るよりも勇気もいるし、そして決心もいると思うんです。で、すごく自分も迷ってて、みんな家族と話してたら、あの、やっぱり学校に行った方がいいというの決定になって、もう一回り大きくなるために、あの、カナダ留学するような決定をしました。
 でも、やっぱり、日本のみなさん、そして日本のファンのみなさんとちゃんとさよならしてないと、なんか、カナダ行ってもすごく落ち着かないような気がするんです。だから今度は、あの、帰ってきて、ちゃんとみなさんと挨拶して、そしてみなさんも、あの、行ってらっしゃいと言ってくれてから、行きたいと思うんです。
 で、ただ一つのことは、約束できることは、どこ行っても、いつでも、一所懸命頑張ります。そして、いつまでもみなさんのことは忘れません。そして、もしみなさんが許してくれるなら、学校終わったら、日本に帰って来ます。どんな形で仕事するのは分からないんですけど、ん、帰ってきて仕事しないかもしれないんですけど、でも必ず学校終わったら、みなさんに会いにでも帰ってきます。それだけは約束します。そして、今度ほんとにいろいろすいませんでした。そして、どうもありがとう。

 あの、私は、あの、お父さんも家族の人たちもね、あの、たぶん、私は、あの、香港生まれでしょ。そして、あの、United Kingdom(なの)で、あの、だからカナダ行ってね、そこの大学卒業したほうがいいとみんな思って、で、いろいろ相談して。
 やっぱり、あの、心理学だってね、あの、(こんなことを言っては)いけないのかな、上智の学生ですけど、やっぱり、あの、外国の方がもっともっと勉強できると思うんですよ。いま、上智の大学だと、やっぱりまだ、あの、そんなadvanceじゃないのね、だから先生も本も資料も少ないんですよ。私ここで英語で勉強してるでしょ。だから本も少ないし、資料も少ないし、図書館も少ないし。すごく、やっぱりもっと広く勉強するためには、カナダの方がいいと思います。

 あの、このまえ香港帰って、それで、すこしこういうような話が出てきて、もう4年になったから、もし学校変えるなら今が時期ですって、言われて、でも、ちょっと仕事忙しくて、ちょっとおいといたんですよね、このこと。
 それで、あの、やっと少し時間あけて、で、ずっとみんないっしょに相談したんですよ。それで、すごく急にそう言われて、もうびっくりしちゃったんだよね、自分も。もうどうしようもない、分かんないんですよね。で、もうけんかしたり、相談したり、みんなと一緒に言ったり、でもみんなより外の人に言っちゃいけないでしょ、まだ決まってないことだから。だから、もう大変だったです。
 向こうついてまだ仕事してたんですよ。あの、「二人の事件簿」のロケーションと、それで、取材もしたしね。自分の香港の仕事もいろいろしてて、それから、あの、この問題が出てきたんですよね。

―― それはお父さんが言い出したんですか
 そうですね。


―― お父さんが、あの、この辺で考えてみたらどうか、って言ったわけですね。

 そう、お父さんが、あの、学校のことを言い出したんですよ。


―― で、けんかしたりして、いろいろ家族で話し合って、正式に決めたのがその20何日かの、その、記者会見で発表したってやつですか。
 そう。だって記者会見の日にね、その夜ね、まだ言ってないときね、お姉さんが徹夜でね、あの、私と話するの。でも私はもう話したくないのよね。だからまたけんかしちゃったんだよね。いく前でも。もう、本当ですかって、分からないです、ほんとですか、とか。もう大変だったんです、家族の中で。考えられない。


―― それが記者会見のする日の前の日の夜、徹夜で話をしたわけ。
 そう。本当はもう決定したんですけどね。でもまだやっぱり、なんか急にそう言われてもみんなまだ信じられないような気とか、まだ、おかしいような気持ちなのね。だからお姉さんも泣いたし、私も泣いたし、お母さんも泣いたし。もう大変だった。
(なぜ香港で一方的に発表したかの質問に、涙で声を詰まらせながら)
 それで、きっとね、私はもう急に決心したでしょ。もし・・・、いま本当のことを言うのは、もし・・・ん・・・、もしプロダクションの人たちとか、そして・・・ファンの人たちが、やめないで、って言われたら、きっと、自分の決心が揺れると思ったから、あの、発表してから、あの、みんなに知らせようと思ったんです。


―― 後悔はないですか
 あの、私は今でもね、これが一番いいの決定かどうか、自分もよく分からないの。でも、お父さんはこれは一番いい決定と思って、で、私もこういう風に信じて、そしてみなさんも、あの、そう思ってくれるなら一番いいと思うんですよね。やっぱり、成長するために、それがしなくちゃいけないとはお父さんは思っていました。

 あの、私本人がね、まだ自分の気持ちよく分からないから、だから、この7年ずっとおかげさまでとても忙しくて、全然自分の将来とか、やりたいこととか、考えしなかったんだよね。だから、この機会を使って、あの、もう少し自分のことも考えて。

(日本に帰ってくるつもりがあるのかの質問に)
 帰ってくるかもしれない、帰ってこないかもしれないんですけど、でも、歌はやめないと思うんですよね。あの、プロフェッショナルじゃないでも、家でも歌うし、子供たちにでも歌うし。だから音楽とは離れはしません。

(今の気持ちを聞かれて)
 うれしかったんですよ。帰りたかったからね。みんなと挨拶しなかったから。
 まあ、お友達なかでは、あの、もう帰んないほうがいいって言ってたんだよね、気持ちまた変わっちゃうからって。でもどうしても一度でもね、戻ってきてちゃんとみなさんと挨拶してから行かないと、なんかすごい悪いことしたような気がするんだよね。だから、すごい、やっぱりほっとしたんですよ。(機内で)「ただいま、羽田空港につきました」って(聞いて)。


―― 学校終えてからですね、芸能界に戻るってのは確実なんですか。
(プロダクション)それは今アグネスが気持ちだけ表現したわけですけども、今後時間のある過程があるわけですから、その間いろいろ話しあって・・・。まあ、私たちとしては、当然今の段階でも、アグネスに一日も早く学校終わったら帰ってきて欲しいと。で、みんなが待ってるんだからぜひ帰ってきてくれと、こいうことはお話しをしてますし、本人もそうしたいなとは思ってくれていると思います。

記者会見中のアグネス

 



 この番組では放送されなかったが、芸能界に対する不満、税金問題に関しては明快に否定している。また、日本にいて一番印象に残っているものは、と聞かれて、「目の見えない不幸な人たちの施設を訪ねて、わたしの歌を聴いてもらったときの感動が忘れられません」と語ったという。


 この記者会見が終わった後、アグネスは18時30分発のJALで、最初のコンサート会場となる大阪に向かった。午後8時にいったん「ホテル・プラザ」に入ったが、すぐ30分後、会場の梅田コマに入り、コンサートのリハーサル、コンサートで歌う、最後となる新曲のレッスンを、翌5日朝の7時まで続けていた。そのあと引き続き、通し稽古に入り、本番に向かうことになった。
 コンサートは、まさに涙で始まり、涙で終わるものだった。「白いくつ下は似合わない」を歌う段になって、アグネスは涙で歌えなくなり、姉のアイリーンが、舞台そでから、立ち往生した妹に駆け寄るという一幕もあったそうだ。
 状況は7日の東京も8日の名古屋も同じだった。このうち、東京公演の模様は「また逢う日まで」というライブアルバムとなって、いまに残っている。また東京公演の模様は、それまでのアグネスの足跡紹介とともに、8日午後7時30分から、NET系列で90分の特別番組として放送された。[さよならコンサート

 アグネスの涙は、4年近く友達でいてくれたファンとの別れの辛さから来るものだった。自分が、一人の女として成長するための行動をとるのは、個人の権利として当然であると彼女は思っていた。だから、その行動の結果が、歌手を引退して一方的に去っていくという形になってしまったとはいえ、そのこと自体には、彼女は、なんのうしろめたさも、呵責も感じていなかった。それは、7日の香港の空港でのインタビューでも明らかである。
彼女は、単純に、別れに涙しただけだった。自分のこの選択は、彼らもきっと分かってくれる。彼女はそう思ったことだろう。ところが、会場では「行かないで」という悲痛な叫び声が響き渡ったのだ。涙にむせぶアグネスの中の、もう一人の醒めたアグネスは、これに心底驚いた。
「(ファンの)皆さんは、私が日本を去ることを思って泣いたのです。信じられませんでした。彼らがそんなにも悲しむとは思ってもみませんでした。私は積極的なイメージを持っていることで、両親は私を好いていると思っています。両親は、自分たちの子供が私のようなことするのを気に留めなかったでしょう」のちに、彼女はこう話している。
 それは、最後の最後に露呈された、ファンとアグネス・チャンとの間の、「哀しい勘違い」だった。
 ともかく、ようやくの思いでコンサートを終えたアグネスは、9日朝、NET「新・二人の事件簿」の撮り納めをし、同日夜フジTV「夜のヒットスタジオ」に出演した。これが最後の仕事になった。
 そして明くる8月10日。日本で本格的活動を開始するため、1972年12月22日に日本の土を踏んでから1327日目のこの日、午後4時、アグネスは家族とともに、日本を離れ、香港に向かったのである。この日はまた、本人不在の中で、14曲目の新曲が発売になった日でもあった。
 3年8か月の間に、60億円とも100億円ともいわれる売り上げを残した、スーパーアイドル、アグネス・チャンは、こうして、唐突にその第一幕をひいたのである。

 なお、アグネスは、コンサートで得たギャラを、全額カトリック協会に寄付した。彼女は、日本の施設で使ってもらうことを希望していた。もっとも、「チャリティにするなら、1万ドルのギャラを4千ドルにする」という渡辺プロの姿勢に、アグネスが激怒し、両者のミゾは一層深まった、というオチがついた。



 






  緊急!! アグネス引退劇に重大疑惑発覚!!






 

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