鄧麗君


 鄧麗君は1953年1?29日、台湾の雲林県褒?郷龍岩村で生まれた。美齢とは約2才年上ということになる。5人きょうだいの四番目、一人娘だった。
 ?親は?民党の軍人で、1949年蒋介石とともに、台湾に移ってきた。??台湾に移住してきた軍人の台湾での生?は苦しく、麗君の家庭も例外ではなかった。しかし両親の愛情のもとにすくすくと育っていった。
 歌好きの母親の影響からか、麗君は小さい?から歌うことが好きだった。6才の?にはすでに先生について歌を習っている。
 一方彼?は厄介な?病を?つことになる。ぜんそくで?る。その?候はすでに9才の?から?った。15才で発作を起こしている。その後症状は治まり、治癒したかに見えたが、27年後病?は再び麗君を襲うので?る。

 さて、11才で?華?ジオ主催の黄梅調(伝?的な地方?でうたわれる歌)歌唱コ?クー?に優?、12才で金馬?コード主催の歌謡コ?クー?に優?と、歌手としての才能の開花は?かった。
 そして13才で台湾テ?ビの専属歌手になった。このころから歌の仕?が忙しくなり、通っていた?学校から、歌をとるか勉強をとるかの選択を?られ、家計を?けるため、?学2年のとき学校を辞めた。後年彼?がア??カに渡ったとき、UCLAで勉学に励んだ?期が?ったが、それはこのような?情の影響で?る。
 14才で台北の一流ク?ブのステージをつとめたほか、テ?ビ番組の司会者に抜擢され、天才少?歌手として一躍脚光を?びる。テ?ビ、ステージの仕?が?えた。この年14才で?コードデビ?ーも果たし、瞬く間に人気歌手の?間入りをした。抜群の歌唱力、愛くるしい容姿、親しみやすい人柄などが広く受け入れられた?由だが、これは終生変わることがなかった。彼?は??民謡から、?歌、ポップスなど?らゆるジ???の曲を見?に歌った。ベースはもちろん北?語で?る。

 1970年、17才のとき、はじめて?港の?台に立つ。??、?港で成功するかどうかが北?語歌手の評価の分かれ目といわれていた。麗君は今までの台湾歌手とはまったく違う愛らしさで?目を?びる。この年、麗君は?港で歴代最年少の?花油チ??ティークイー?に選ばれた。ちなみに?花油はタイガ-バ-?とならぶ有名な家庭常備薬で?る。美齢とのオーバー?ップはこの辺りからはじまる。
 ?1971年、楽?(?イフ)?コードと契約、?多くの曲を?き?んだ。麗君の歌はアジア一帯で大ヒットを飛ばしていく。
 楽??代、どんなに忙しくても一言も文句を言わず、そつなくノ?マをこなしていたことから、麗君は「歌う公務員」と呼ばれていた。また歌唱法を大人向きに変えた。その?果バ?ードのようなス?ーテ?ポの曲を情感豊かに歌えるようになった。また声の小さい?点も、マイクの使い方を研?して、優しく、?くような心に染み入るような歌唱法にしていった。これが後のテ?サ節になるので?る。常にスタッフに感謝の念をもち、彼らの気?ちを?んでの仕?ぶりだった。

 ところで、1971年は麗君をはじめ台湾に住む人々にとってつらい年になった。?華民?が?連を脱退したので?る。以後?際機関からも?々と追放を余儀なくされた。日本を含む各?が台湾と断交し、人民??との?交を?んだ。台湾は?際社会から?家として認められなくなった。ときに麗君17才。多感なこの?期、彼?はこの?実をどう受け止めたのだろうか。

 とも?れ、こんな麗君を日本の音楽業界がほうっておくはずがなく、日本ポ?ドー?が1973年に麗君と契約、?年、21才で「今夜かしら明日かしら」で日本デビ?ーを果たした。?属プ?ダクシ??はアグネスと同じ渡辺プ?だった。
 日本デビ?ーについては?親が最?反対した。すでに台湾や?港で?れっ子になっているのに、なにも日本で一からやり直すことはない。という意見だった。美齢の?親の意見に?て面?い。
 デビ?ー曲の伸びははかばかしくなかった。麗君は??アグネスと同じようにアイド?歌手として?り出したが、よくなかったようだ。急遽路線を変更し、?歌歌手として第2弾「空港」を??ース、これが大ヒットとなり、以後鄧麗君?テ?サ・テ?は日本では?歌歌手としてその地位を固めていく。
 この年(1974年)、麗君は?コード大賞新人賞をはじめ多くの賞を獲得した。

 その後、日本、台湾、?港で麗君は?々とヒットを飛ばし、大歌手の道を?々と歩んでいった。日本以外では北?語で歌ったため、とくに各地に?る華僑社会で人気を得た。
 アグネスと同様、日本の音楽業界のシステ?の違いは、麗君をも苦しめたようで?る。愚痴・不平をこぼすような人ではなかったが、日本では「自分には選曲の自由がない」と言っていたそうで?る。これはアグネスも同様の感想を述べている。?港では出?番組でうたう歌は本人に任されていた。
 しかし、日本での?動は歌手としての麗君の実力を?実に向上させた。日本のスタイ?や感性を伝?的な??歌唱と融?し、独自の世界を切り開いていった。また日本の歌を北?語で??人社会に紹介した文化功労者としての業績も評価されている。

 さて、1970年代からは、麗君は、台湾だけでなく、?港や?南アジアでも、孤?、身障?、?害被災者のためのチ??ティーコ?サートをたびたび開く。また??関係の基金や団体に多額の寄付を行っている。自分が貧しい生?をしていたことも?って、社会的弱者には強い関心を?っていた。

 1979年は麗君にとって?練の年になった。台湾入?の際、偽造パスポートを使用したかどで?外退??分を受けたので?る。麗君は、正規の?華民?のパスポートは?然??していたが、?交のない日本との??の便宜を図るため、もう一通イ?ドネシア籍の偽造パスポートも??していたので?る。台湾の?際社会に置ける立場を反映した哀しい??で?る。
 その後麗君は日本に向かい、やはり偽造パスポートを使って一旦は入?したものの、?局官?の知るところとなり、台湾へ強制?還されそうになった。このままでは麗君の歌手生命が危ぶまれる、そう判断した日本側スタッフは八方手を尽くして麗君をア??カに?った。
 ア??カで、麗君は母と、留学?の弟とともにLAに滞在し、各地でコ?サート?動を行うかたわら、英語を勉強し、UCLAに特別聴講生として生物、?学、歴史などを学んだ。
 1年6か?に及ぶLA滞在の後、1980年、麗君は台湾に戻った。

 偽造パスポート??に関する?分を覚悟していた麗君を待ちかまえていたのは、政府の不起訴?分の?定だった。この予期せぬ寛大な措置に彼?は涙を流し、改めて?家に対する?誠を誓ったという。

 美齢と麗君を比較して、最も際だった違いの一つが、?家に対する関与の考え方で?る。美齢も1981年以降、??人としての自覚に目覚めたといわれているが、?家という考えは若干希?なように見受けられる。これは?港という特殊な環境で育った影響が?ると思う。麗君の場?は、?親が軍人だったことも?って、生まれたときから?家への帰属意識は強く、とくに軍との関係も密だった。?実6才の?に最?についた歌の先生も空軍の音楽隊に?属していた人だった。また、軍への慰問公?も頻繁に行なっている。「軍?情人」(軍隊の恋人)とは台湾に置ける麗君のニックネー?の一つだった。

 さて、その後の麗君の?躍は、以前にもましてすごいものだった。台湾に戻った1980年、麗君は台湾で最も優秀な?性歌手に贈られる金鐘賞を受賞した。?1981年には?港で5?のゴー?ドディスクを獲得。また?港や台湾、?南アジア一帯で?多くのコ?サートや?サイタ?を開催した。
 1983年、デビ?ー15周年記念シ?ーを?スベガスのホテ?で開催し、?港でも記念コ?サートを開いた。この?港のコ?サートは観客動員?など記録的なコ?サートだったという。
 この年、麗君は30才になっていた。

 麗君の人気を象徴する「??」が1980年ごろ、??「竹のカーテ?」で閉ざされていた大陸で起こった。麗君の「何日再來」が大ブー?になったので?る。台湾海峡をめぐる台湾と大陸の宣伝戦の一環として、台湾が大陸向け?ジオ放?などで麗君の歌を連日流し続けた?果だった。このため麗君は1983年の人民??の精神?染一掃キ??ペー?の対象になり、徹底的に攻?された。しかし、一般民衆は「小鄧壓倒老鄧:可愛い鄧が老いぼれ鄧をうち?かした」、「?天聴老鄧、晩上聴小鄧:?間は鄧小平のことを聴き、夜は鄧麗君を聴く」とささやき、キ??ペー?の実効のほどは疑わしいものだった。この?に関しては1986年、胡耀邦??記が鄧麗君の名誉回?を発表している。

 一方日本では、1984年に「つぐない」が大ヒットし、麗君は日本歌謡界にも見?返り咲いた。偽造パスポート????に尽力した人々には感無量の思いが?ったに違いない。その後「愛人」、「?の流れに身をまかせ」を?々に大ヒットさせた。この3曲で麗君は1984年から3年間連続で日本有線大賞、全日本有線放?大賞ともにグ??プ?を受賞するという史上?の偉業を達成した。

 麗君の甘い歌声は、?境を超えて、民族を超えてアジアに響き渡ったので?る。

 このころ麗君は?動?点をシ?ガポー?に移していた。美齢と異なるもうひとつの点は、その?動?点で?る。美齢は1972年の日本デビ?ー以降、一貫して日本を?動?点にしている。一方麗君は78年に渡辺プ?との契約が切れて以降、?動?点として日本を選ぶことはなかった。シ?ガポー?から?港へ、そして最後はパ?で?った。

 しかし、ひたむきに歌い続けた麗君にも疲れが見えはじめていた。1986年ごろから、麗君は一種の?怠感に陥る。商業ベースのコ?サートに疑問を抱くようになった。「チ??ティコ?サートか軍の慰問に限りたい」麗君はそう言ったという。デビ?ーして20年間。新たな人生の突破口を模索しはじめていた。
 いつかは大陸のファ?の前で歌いたい、そんな希望も潰えそうになっていた。?回開いたところで、?れるのは政府役人や特?階?の人ばかりで、名もないファ?のまで歌うことにはならない、そんなシニカ?な見方をするようにもなった。
 それでも、90年からの北?を皮切りにした大陸コ?サートツアーの?備が、88年からはじまった。麗君も大陸のファ?の前で歌いたいという欲?が少しずつ?まってきた。
 そんな矢先、衝?的なニ?ースが全世界を駆け抜けた。

 1989年6?4日未明。民主化を要?する学生や市民に人民解放軍の戦車が襲いかかり、多?の??者を出した。天安門??で?る(日本ではこう呼ばれているが大陸では天安門?波、台湾では六・四民運??、?港では六・四大虐殺と呼ばれている)。
 これに抗議して?港では200?人規模の大デ?が行なわれた。そのころ?港に?動の?点を移していた麗君は、ハッピー・?ァ?ー競馬場で行われた天安門民主化支?8?間マ?ソ?コ?サートに参加した。「今は?港を離れられない」麗君は予定していた?日キ??ペー?を?止した。

 この??は麗君に深い?を残した。計画されていた大陸コ?サートツアーはもちろん?止になった。その後??が一段?して、台湾や?港の歌手が大陸市場目指して続々と進出するなか、麗君だけは大陸に行こうとしなかった。??が麗君のなかに強いわだかまりを残していた。「そうこだわらなくてもよいのではないか」という人もいたが、麗君は頑としてきかなかった。1991年から1993年にかけて北?から招へいの打診が?った。ギ??は破格の1000?HKド?(約1.4億円)だったが、見向きもしなかった。「民主化が実現するまでは絶対に大陸では歌わない」麗君はかたくなに思った。
 そして大陸の鄧麗君ファ?がその歌声をじかに聴く機会は、永?に失われたので?る。

 天安門??以降、麗君はパ?に移住する。?動は目立って減っていった。その?で?かさなかったのはチ??ティコ?サートへの出?と台湾の軍隊慰問だった。1990年には?親が??している。

 1995年5?8日。気管支ぜんそくの発作による呼吸困難のため、静養先のタイのチェ?マイで??。?年42。独身。

 ?まりに?い?で?った。

 ?後、台湾?防省から「陸海空軍褒状」を、?民党政府から「華夏一?奨章」を、僑務委員会から「華光一?奨章」を、??から「褒揚令奨章」を授与される。また1996年には?港音楽業界より、黄金の針賞を授与された。

 「全?十三億熱愛的?星」、「両岸歌后」と呼ばれた鄧麗君は逝った。常に自分が??人で?ることを忘れず、??人にコミットし続けた麗君は、ふたつの??の間(はざま)で翻弄され、それでも歌い続けた。そんな彼?の人生が、果たして意に即したものなのか反したものなのか、彼?自身に確かめるすべはもはやない。しかし、彼?の歌は今日もアジアのそこかしこで歌われ続けている。


 楽屋?ちで恐縮だが、実は第3章「?港デビ?ー」は最?2つの章に分けるつもりでいた。前半でデビ?ーまでを、後半は?港?代の?躍のエピソードを?くつもりだった。後半の章のタイト?は「アジアの歌姫」を予定していた。
 ところが、調べていくうちに鄧麗君のアジアにおける?躍のすごさを知り、考えを改めた。たしかに美齢もアジアで人気を?した。個人的には彼?を「アジアの歌姫」にしたいので?るが、こうして彼?の一生を見た今、?は素直な気?ちで、その称?は鄧麗君に捧げたいと思うので?る。



 ?この?は主に、「テ?サ・テ?が見た夢、平野久美子、昌文社、1996年」を参考にしました。




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