香港の音楽事情(1)


 ここで当時の香港の音楽事情を見てみよう。

 香港のポップスのルーツは上海にある。
 1949年の政変を機に、上海の音楽関係者及び音楽産業は本拠地を上海から、当時はまだ田舎町だった香港に移した。
 上海で創られた流行歌は時代曲と呼ばれた。上海は長く列強の租界があった関係で、国際感覚が豊かな、華やかなモダン都市であった。そこで多く創られまた流行した音楽が時代曲である。時代曲という言い方そのものは、上海音楽が香港に到来してから香港でいわれたものである。
 国際都市上海とはいうものの、中国伝統の色合いは強く、時代曲も中国伝統の歌曲に根ざしたものであった。歌は北京語でうたわれた。

 ここで、言語についていうと、我々が普通に”中国語”という言語は北京語を指す。北京語は”普通話”または単に”国語”とも呼ばれる。”マンダリン”という言い方もある。それぞれ厳密には違うようだが、この空間ではそれらをひっくるめて”北京語”と呼ぶことにする。
 これに対して、香港や広東州で普段話される言語は”広東語”と呼ばれる、方言の一種である。北京語とはかなり違うらしいが、筆者にはよく分からない。広東語は繁體字で記述される。日本語の旧漢字に似て複雑な字である。一方北京語は簡体字で表現される。これは日本の草書体を活字にしたようなものですっきりしているが、かえって繁體字よりも意味がとりづらいことがある。
 広東語は香港やその周辺で話されるだけである。世界中にちらばる華僑の街ではもっぱら北京語である。従って、ワールドワイドな中国人社会に浸透するためには広東語ではなく北京語である必要がある。もちろん広大な大陸に進出するためにもである。

 さて、香港にやってきた上海音楽関係者は、以前と同じように時代曲を作り始めた。しかし、同じ国際都市ながら植民地であったことから、香港は上海よりもはるかに欧米の影響を受けていた。音楽の嗜好も中国伝統歌曲というよりはむしろ、洋楽にあったようだ。上海時代曲は1965年ごろを境に姿を消していく。

 代わって登場したのが、洋楽に中国語(北京語)の歌詞をつけるいわゆるカバー曲だった。とくに1964年ビートルズが香港で公演してからはバンドブームが起き、洋楽を歌う小さなバンドがいくつも登場した。ただし大部分が欧米のコピーだった。この中で陳寳珠(チャン・ポーチュウ)、蕭芳芳(ジョセフィーヌ・シャオ)のブームが起きた。60年代末期には泰迪羅賓(テディ・ロビン)& プレイボーイズが人気を博した。香港ポップス界で最も重要なアーティストの1人許冠傑(サミュエル・ホイ)が参加した蓮花楽隊(ザ・ロータス)も60年代後半に活動をスタートさせている。

 1960年代は、もっぱら北京語及び英語で歌われた。広東語で歌われることもあったが、北京語、英語に比べて一段低く見られ低俗と見なされていた。
 英語ポップスは特に若者に支持された。若者たちは欧米の音楽に傾倒し崇拝して、大人たちとしばしば衝突した。この辺りの事情は日本と似ている。
 一方、このころ台湾の北京語時代曲が紹介され、再び北京語で歌われるようになった。しかし、若者の主流は依然英語ポップスだった。

 このような状況は1970年代初期まで続く。アグネスのデビューアルバム('71)がすべて英語で歌われたのはこういった時代背景によるものである。香港の音楽評論家黄志華は「チャイニーズ・ポップスのすべて」の中で、「アグネスの『Circle Game』は香港の歌手が英語で歌い、香港で成功をおさめた最後のものだろう」と述べている。
 アグネスのライフ時代の英語アルバムでは、当時英語ポップスで活躍した蓮花楽隊のメンバーや葉振棠(ジョニー・イップ)が演奏やバックボーカルをつとめている。

 



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