日本へ


 話は少し前後する。
 アグネスが香港でデビューした1971年の夏、当時日本に留学していた姉のアイリーンから一つの知らせが届いた。「今度香港に行く平尾昌晃先生の世話をして欲しい。」 彼はアイリーンの歌の先生だった。
 1950年代終から1960年代前半、ミッキー・カーチス、山下敬二郎らとともにロカビリー三人男の一人として、平尾昌晃氏は「恋の片道切符」、「ダイアナ」などのカバーで一世を風靡した(当時平尾昌章)。その一方で「星はなんでも知っている」などの歌謡曲も手がけた。その後作曲家に転向し数々のヒット曲を世に送り出した。
 平尾氏は、洋上セミナーのため、文具関係者16名とともに、長崎からオリアナ号に乗船して香港に向かうことになっていた。
 それを知ったアグネスは、彼に「美齢晩会」への出演を依頼し、快諾された。
 氏が香港に到着するとそのままRTVへ向かい、「美齢晩会」にゲスト出演した。そこで氏は初めてアイリーンの妹、アグネスに会った。番組では、氏は日本の歌を歌ったり、アグネスと英語の歌をデュエットしたりした。また、アグネスはカーペンターズの曲に自分で広東語の詞を付けて歌った。
 「チャーミングで頭がよい」と言う印象を持った氏は、また、アグネスの「日本人にはない声と声質」で感動したそうである。
 番組終了後、出演のお礼として、アグネスは自分のデビューアルバム「Will the Circle Game be Unbroken」を手渡した。それが、彼女の想像をはるかに超えるワンダーランドへの入り口の小さなパスポートになることは、もちろん知る由もなかった。
 「彼女は必ず日本でアイドルになる」そう確信した平尾氏は、帰国後、早速周囲の関係者にアグネスのことを話した。「アイリーンの妹で、香港で歌手をしているアグネスという娘がいる」うわさは広まり、レコード会社やプロダクションが興味を示した。

 当時、欧陽菲菲の大人気に端を発した、いわゆる「外タレブーム」の兆しがあった。これ以前にも日本で活躍していた外人歌手は、例えばベッツィ&クリス(米)、ヒデとロザンナのロザンナ・ザンボン(伊)、ダニエル・ビダル(仏)、ジェーン・シェパード(米)、ジュンとシュク(韓)、王祥齢(台)等がいた。しかし本格的なブームのきっかけとなったのは、やはり欧陽菲菲の成功であった。
 実際、この翌年にかけて、何人もの歌手が日本デビューを果たしている。彼女らのなかには、マリカ・コバクス(カナダ)、グラシエラ・スサーナ(アルゼンチン)、バーバラ・フォール(米)、アダ・モリ(伊)などがいた。アグネス・チャンも、当時にあっては彼女たちの中の一人に過ぎなかった。いずれも本国ではすでにデビューを果たし、それなりの実績を残していたが、日本での活躍は未知数であった。

 閑話休題
 早速何社かがアグネスの・Dに動いた。その中にはアイリーンの所属プロであるオールスタッフや当時日本最大の規模を誇った渡辺プロダクションがあった。
 渡辺プロダクションは、1959年に渡辺晋・美佐夫妻によって設立された。設立当時の資本金はわずか100万円の小さな芸能プロの一つに過ぎなかった。しかし、ロカビリーブームやGSブームに乗り急激に発展していった。当時の渡辺プロを代表するタレントと言えば、天地真理、アン・ルイス、太田裕美、欧陽菲菲、キャンディーズ、小柳ルミ子、テレサ・テン、沢田研二、ドリフターズ、クレージーキャッツ、布施明、森進一と枚挙にいとまがない。
 渡辺プロは自前の音楽学校からテレビのオーディション番組まで所有しており、自社だけでタレントを養成するという方針を取っていた。また十分な実績を持つか、あるいは持たせた上でデビューさせるという堅実さもあった。例えば、小柳ルミ子は宝塚音楽学院の卒業生であり、しかもNHKの朝の連続ドラマ「虹」に1年間出演していたし、天地真理もすでに「時間ですよ」で人気は確定していた。当時新人歌手をスターダムに押し上げるには最低でも2000万円から3000万円の「先行投資」が必要だったという。それだけにプロダクションとしても確実に「資金回収」できる新人を求めたのである。
 香港ですでに人気を博していたアグネスは、そういったプロダクション側の思わくにもぴたり当てはまった。実力、タレント性は申し分なく、しかも「外タレ少女歌手」という話題性も十分であった。

 1972年6月、渡辺プロは、日本デビューへのふんぎりをつけさせるため、両親共々アグネスを日本に招待した。はじめてみる日本はアグネスにとって新鮮な驚きの連続だったようだ。もちろん渡辺プロの事務所も表敬訪問している。その時の事務所側の印象はというと今一つだったとアグネスは著書のなかで語っている。「愛敬のない子」というのだが、これはアグネスにとって酷だろう。新人は常に笑顔、という日本の芸能界のしきたりをアグネスはまず知らなかったし、わけの分からない外国語が飛び交う雑然とした事務所で、緊張しきりの姉を横に外国人にあいさつするとなれば、誰だって笑顔を作る余裕などないと考えるのである。
 ともあれ、この4泊5日の日本旅行はアグネスに好印象をもたらした。アグネスは日本で歌うことに傾きつつあった。
 このことに関して、彼女の周辺はどうであったか。彼女の両親にしても香港の芸能界にしても、当然日本行きには反対だった。香港の成功を捨ててまで日本に行く価値があるのか。東南アジア一帯でもアグネスの人気に火がつきつつあった時期だった。しかし彼女の決心を変えられるものではなかった。

 最終的にプロダクションは渡辺プロダクション、レコード会社はワーナーパイオニアに決定した。
 ところで、アグネスをスカウトした格好になった平尾氏は、ソニーに入れたかったそうだ。しかし、渡辺プロとワーナーパイオニアがジョイントして彼女を獲りに出たため、あきらめた。そのこともあってか、氏はデビュー曲を辞退した。ちなみに当時のワーナーパイオニアには渡辺プロが資本参加しており、社長は渡辺晋氏だった。
 アグネスの日本行きは決定した。

 さて、2か月後の8月13日、ファーストアルバムのレコーディングのためにアグネスは再び来日し、目黒にあるモウリスタジオに入った。このレコーディングでは、アグネスとレコーディングスタッフとの間で激しいやり取りが続いた。お互いの忍耐が試された、難産に難産を重ねたものだったという。

 アグネスはすでに自分の歌を確立していた。少なくともスタンスは定まっていた。彼女は自分のメッセージを語りかけるフォークシンガーでありたかった。
 しかし、彼女に課せられた曲の世界は、彼女の考える世界とは全く異質なものだった。

 当時アグネスは17歳になったばかりだ。しかし、彼女は12歳の頃には、文革のあおりで騒然とした社会を目の当たりにし、ボランティア活動を通じて厳しい現実を知った。甘い少女の夢を見ていてもおかしくない年頃だったが、彼女は、今そこにある現実社会を直視し、地にしっかり足をつけて対峙しようとした。彼女が携(たずさ)えているものはキリストの教えと、そして歌だった。この時期のアグネス=美齢にとって、歌は人を慰め、悲しみを和らげ、希望を与えるものであるはずだった。歌は、非力な少女が現実社会に関わっていくために、唯一手にした、聖なる道具ともいえるものだったのである。
 香港時代、そんな彼女の思いを商業主義が知らず知らずのうちに徐々に蝕んでいったが、それでも自由度はあった。だが、今回はどうか。彼女の信念と誇りが猛烈に抗議をしたのも無理はない。
 尤も、うがった見方をすれば、アグネスが課せられた世界に、彼女が芸能界に足を踏み入れることで、苦渋のうちにあきらめざるを得なかった学生生活の一、面を感じたのかもしれない。心の片隅に、そういったロマンチックなものに対する憧れを捨てきれずにいる自分がいることを、あからさまに想い出させられたがために、かえって反発する部分があったのではないかと、筆者は思うのである。

 さて、レコーディングではアグネスの歌い方にもチェックが入った。自分の流儀とスタッフの望むところが相いれない。発音に関しては絶望的であった。スタッフから指摘されるまでもなく、はじめての日本語はとにかく難しかった。やってもやっても思い通りにならないもどかしさに、自分自身に腹を立て、スタッフからの言わずもがなの指摘がそれに拍車をかけた。自分のやりたいようにできない、他人の指図通りにしなければならない、という状況で、コミュニケーションの不足も手伝って、彼女は次第に怒りと悔しさを募らせた。涙を見せることもしばしばだったという。年端もいかない少女が、やっと築き上げた自分の世界をいとも簡単に否定するようにみえるやり方に、アグネスは態度を硬化させ依怙地になっていった。そこそこの妥協点を見つけて手を打つ、というような知恵は、経験の浅い彼女には考えすら及ばなかった。また彼女の性格からも、そのようなことはできるものではなかった。遙か故郷を離れた異国の空のもと、頼れるものといえば己一人というなかで、果敢にもアグネスは、ひたすら真っ向勝負で挑んだのである。
 一方レコーディングスタッフも大変だったに違いない。彼らはプロダクションが示す方向性にそって彼女の歌を指導しなければならなかった。その方向性は「フォークシンガー」を指すのではなく、「アイドル歌手」を指したのは明らかである。そしてその先にある世界は、ずばり夢、おとぎの世界である。そこへ聞くものをいざなうのが「アイドル歌手」としての彼女の役割だ。彼女が歌う歌はあくまでポエムであり、それを伝える彼女自身にはそれを引き立てる可愛さ、明るさが強調されなければならなかった。
 スタッフは恐らくこのような方針でアグネスを指導した。しかし、その指導のことごとくが彼女の抵抗に遭う。スタッフも困惑したに違いない。彼女の歌声や容姿は、曲の世界とよくマッチしている。いや、マッチする曲が選ばれたはずだ。これを生かすようにしようとすると彼女は抵抗するのである。そのつどスタッフはいろいろ議論するのだが、ここで問題になってくるのが言葉、コミュニケーションだった。スタッフが過ちを犯したとすれば、自分たちの考えを、その過程も含めアグネスに伝えようとする努力を怠ったことだ。スタッフの考えを一部始終彼女に伝えていれば、納得はされなくても、少なくとも理解は得られたはずである。結論だけの指示では余計な反発を買うだけ、ということが十分理解されていなかったものと考えられる。
 恐らく両者とも自分は妥協させられ、相手は主張を押し通したと思ったに違いない。はなはだ疲れるレコーディングであったろうとしのばれる。しかし、その苦労は半年を経ずして報われるのである。
 ともかくようやくの思いでレコーディングを終え、アグネスは一旦ホンコンに帰った。

 9月に入って新学期がはじまり、学生に戻ったアグネスだが、相変わらず仕事と学業の両立に忙しい日々を送ることになった。仕事は香港のそれに加え、来日直前ということで日本のマスコミの取材もあった。デビューをひかえプロダクション側も本腰を入れ始めた。
 デビュー曲には、先のアルバムから「ひなげしの花」/「初恋」のカップリングが選択され、11月25日発売と決まった。アルバムが先にできてそこからシングルカットされるという手順は、当時の歌謡歌手としては珍しいことである。
 アメリカンスクールへの編入手続きも済ませ、後は日本へいく日を待つばかりとなった。[香港最後の学生生活] [香港の自宅前での制服姿

 ところで、彼女の父親の陳燧棠は日本行きに際して、美齢に3つの約束をさせた。「病気をしないこと」、「学校は卒業すること」、「一度心に決めたことは最後までやり通すこと」の3つである。またプロダクションに対しては、彼女はあくまで学生であることを強調し、学業を全(まっと)うさせることを約束させた。契約では彼女の教育費(アメリカンスクールとその後の上智大学)を払うことを認めさせた。さらに彼女の日本での保護者を要求し、このことで、アグネスは広尾にある渡辺プロダクション社長の離れの2階に住まうことになったのである(当時は東京プリンスホテル住まいと紹介されたが)。

  12月21日。アグネスは朝7時から映画「叛逆」の仕事が入っていた。仕事は夕方まであった。そのあとレコーディングがあって、なんと翌朝の午前7時まで続いた。くたくたになって家に帰ると、待っていたのは羽田行きの飛行機の時間を気にする姉、アイリーンだった。

 その日、22日は、アグネスが日本へ向かう日だったのである。



*この章は、一部に平尾様のお話を利用させていただきました。ありがとうございました。
 
 
 
 
 

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