歌手として、タレントとして



 アグネスは燃えていた。今やフルタイムの歌手となった彼女は、自分の音楽世界を追求しはじめたのだ。それを加速したのは、復帰直後のレコード会社移籍だった。

 



 前章でも触れたが、彼女の所属事務所、渡辺プロダクションは、その年1978年9月に新レコード会社Sound Marketing System社(SMS)を創立した。アグネスは、SMSへの移籍について前もって知らされておらず、プロダクション側の勝手なやり方に最初は憤慨した。しかしSMSでは、レコード作りに関して、以前にも増して関与できるようになった。彼女はこれを歓迎した。彼女は語る。
 「・・・けれども、特別の権限によって、私は今や自分のレコード制作にいっそう関われるようになったのです。私は大人になり、自分のミュージックセンスを今ではいっそう信じています。昔はほかの人の意見によく従っていて、それが仕事をすることのように見えたのです。意思決定がなされるときも私は寛大であり続けました。しかし、カナダから戻ってきてからは、私がうたう歌に関してはもっと発言を要求し、そして自分の仕事をもっともっと楽しんでいます。」
 SMSへは、以前ワーナー・パイオニアで一緒に仕事をやったことのあるスタッフも移籍してきた。その中の一人で、彼女のレコード制作の音楽ディレクターをつとめたこともある細井虎雄氏は、次のように語っている。


 「(ワーナー・パイオニア時代で)音楽的な面でいうと、ぼくたちは”アグネス・サウンド”というものをかなり意識的に作ったつもりです。フォーク+ポップという線で、オリビア・ニュートン=ジョン、サイモン&ガーファンクル、キャロル・キング、メリー・ホプキンスなどに近いサウンドですね。・・・獅子座生まれのせいか、彼女は負けず嫌いの性格でね、レコーディングなんかにしても、人一倍主張があるんです。それだけこちらも神経使いますし、そういう緊張感は必要ですね。・・・自分自身を表現できる歌手として成功させたいですね。」
 こういった仲間に囲まれ、アグネスは独自の世界を切り開いていく。8月に来日後、ホテル住まいが続いていたが、10月には、南青山のマンションに拠を構え、腰をすえて音楽に取り組んでいくことになるのである。


 歌謡曲とニュー・ミュージックを結びつけた先駆者として、アグネスは復帰直後から、ニュー・ミュージック色を鮮明にしていった。彼女自身もニュー・ミュージック系のアーティストとして見られることを好んだようである。吉田拓郎、松任谷正隆、ゴダイゴなど、当時を代表するニュー・ミュージック系アーティストを起用し、都会的センスに溢れた作品を次々に発表していく。
 翌1979年には、香港クラウン(後ノ香港キャピタル・アーティストに移籍)と契約し、香港を中心としたアジアでの活動も再開する。


 香港では、日本の曲に広東語や北京語の詞をつけて歌ったほか、香港の新進作詞家や作曲家から曲の提供を受け、当時市民権を得ていた広東語ポップスの発展に寄与した(13章参照)。


 アグネスの音楽はラブ・ソングにはとどまらなかった。子供向けの英語の歌や、カンボジア難民救済のための曲をはじめとするメッセージソングも手がけた。これらは、彼女の昔からの夢の実現であり、時代に躍らされることなく、しっかりと地に足をつけて、生きていこうとする、彼女の気持ちの率直な表れであった。


 一方、プライベートの面でも、彼女は変わっていった。2年間の留学生活は、アグネスを人間的にも一回りも二回りも成長させた。復帰後は、「以前より明るくなった」との声が、彼女の周囲からよく聞こえるようになった。そんな彼女に、一人の男性が現れたのである。シンガー・ソング・ライターである彼との付き合いは、復帰直後の1978年8月に、彼の担当していた深夜ラジオ番組に彼女を招待したときから始まる。彼女のデビュー当時から憧れていた彼はもちろんだが、彼女のほうも、彼の飾らない人柄に、彼の音楽だけでなく、一人の男性としても惹かれていくものを感じていた。(特別編参照


 アグネスは彼を自分のマンションへ食事に招待し、また香港の実家にも招いて、彼女の母親に引き合わせるなど、一時は親密な関係になっていったが、結局この恋は実ることなく消えた。しかしこの経験は、彼女を人間としてだけでなく、一人の女としてもさらに成長させ、ひいては彼女の音楽にも少なからぬ好影響を与えたに違いない。[彼と]
 こうしてアグネスは、歌手として、ミュージック・アーティストとして、着実に成長し、前進していった。彼女の音楽的展望は、明るく開いていくかに見えた。
 だが、ひとたび商業的側面に目を転じれば、復帰後のアグネスの活動は、決して満足のいくものではなかった。

 関係者の大きな期待のもとに実施された復帰記念コンサートも、初日の武道館では8,000人以上の入場者数を数えたが、全体的には70~80%の入りにとどまった。特に、台風と重なった金沢公演は、1,754人のキャパシティに対して、その半分以下の800人の入りだったという。
 復帰第一弾の「アゲイン」こそ、10万枚近くのセールスを記録したものの、その後は急速にセールスを減少させ、1979年の「100万人のジャバウォーキー」を最後に、1984年の「愛のハーモニー」まで、ヒットチャートから彼女の音楽は姿を消すのである。留学以前の彼女の人気からは、考えられない状況ではあった。このような状況は、彼女の側の変化によるというより、むしろ受け手側の、一般大衆の変化によるところが大きかった。この意味で、彼女の2年間のブランクは、決して小さくはなかったのである。


 「シングルが売れないと、好きなLPの吹き込みや、コンサートに響く」ことを充分認識していたアグネスにとって、この状況は看過できなかった。ミュージシャンとして、自分の楽曲には絶対の自信を持っていたことは疑いないが、それがヒットに繋がらない、一般に受け入れられないことに、彼女は困惑した。聞き手に迎合する必要はないにしても、職業歌手である以上、なにがしかの結果が伴わなければ失格である。内心の焦りとともに、彼女は一つの疑念に突き当たった。「もしかすると、私は歌手に向いていないのではないか」


 一方プロダクション側も、売上げを伸ばそうとあれこれ考える。一つはイメージチェンジをはかり、アグネスの新たな側面をアピールすることだ。1979年初頭に、それまで伸ばしていた髪を15cm以上カットしたのも、あながち無関係でないだろう。また、20台半ばを迎える彼女に対して、彼らは大人の歌手への脱皮を迫り、それにかこつけ、あろうことか、セクハラまがいに迫ってきたものもあったという。


 マネージャーを通じて持ち込まれるさまざまな仕事に対して、アグネスはしかし、そのすべてを引き受けたわけではなかった。今や自分に目覚め、自分の音楽に自信を持ち、自分の主張を周囲にアピールするようになった彼女は、自分が納得する仕事しかしようとしなかった。留学以前の、高い人気のあった頃ならいざ知らず、その頃の状況では仕事のえり好みが許されるものではなかった。彼女の態度にプロダクション側も頭を抱えざるを得なかった。


 では、アグネスは何がしたかったのだろうか。「ボランティア活動がしたい」というのが、彼女の希望だった。実際、1980年1月には、香港で開催された「カンボジア難民救済チャリティー・コンサート」に出演し、1981年には日本でも「カンボジア難民救済チャリティー・コンサート」や「インドシナ難民救済コンサート」を開催している。


 しかし、当時の日本にあっては、ボランティアに関する関心や理解は、残念ながら高いとは言えなかった。1978年から始まっていた日本テレビ系列の「24時間テレビ」が、そのような意識の高揚に一役かってはいたものの、まだまだイベント色が強く、根づくまでには至っていなかった。特にタレントのボランティア活動は売名行為ととられる風潮もあった。黒柳徹子女史がユニセフの親善大使に任命されたとき(1984年)も、そのようなことが一部報道に見られた。したがって、いかにアグネスの希望とは言え、ボランティア活動を彼女の活動の中心にすえることは、プロダクション側としても二の足を踏まざるを得なかったに違いない。現実問題としても、初のメッセージソングである「ぼくの海」およびそれを含む「Message」をリリースはしたものの、一般の関心をひくことはなく、後に続くこともなかった。


 彼女にとって、終始一貫して歌は「自分を伝える道具」であり、「人との対話、ふれあいの手段」であった。彼女がメッセージソングにこだわった理由もそこにある。留学によって見識を広げ、また「子供や戦争」に強い関心を示し、時事問題にも積極的に関わっていこうと考えていた彼女には、伝えたいメッセージが溢れていた。自らもボランティア活動によって弱者や困窮者を救済し、その思いを歌に託して、人々にも彼らのことを知ってもらい、その輪を広げていきたい。おそらく彼女の希望と理想はその辺りにあったに違いない。救うべき弱者や困窮者を前にし、その現状を訴えるメッセンジャーの役割を、若干の気負いを込めて、彼女は欲したのである。


 しかし、彼ら自身を慰め、癒し、悲しみを和らげ、喜びをもたらし、明日への希望をいだかせるためにも、歌が大切であることを、アグネスは忘れかけていた。それはメッセージソングだけでは伝えられない性質のものだった。そして彼らにまず必要なのは、こっちのほうであることを、彼女は見過ごしそうになっていたのだ。歌の持つ重要な役割のもうひとつの側面に彼女が再び目を止めるのは、もう少し先だった。


 一方で、一人の音楽家、ミュージシャンとして、アグネスは自分の可能性を追求したいとも考えていたようである。作詞、作曲、プロデュースと、自分の音楽作りに積極的になっていった。しかし、基本的なシングルのセールスが思わしくないこともあってか、なかなかオリジナルアルバム制作のチャンスは得られなかった。実際、国内では、復帰記念の「ハッピー・アゲイン」から「City Romance」まで、8年間で22枚のアルバムを数えるが、このうち8枚はベスト盤であり、4枚がワーナー・パイオニア時代の復刻盤、つまり過去の遺産だった。「シングルが売れないと、好きなLPの吹き込みに響く」懸念は、現実のものとなっていったのである。ただ、香港での活動は若干状況が異なり、1979年から1985年までに出した8枚のLPは、カバー曲はあるものの、いずれもオリジナルアルバムであった。

 歌手としての活動が低迷する中、というより低迷していたがために、音楽活動以外の活動が1980年ごろを境に増えていく。いわゆる「タレント」としての活動である。それらの活動は、音楽家という面だけでなく「外人」、「学士」、「クリスチャン」という面が強調された。


 1979年5月、アグネスは早稲田大学で1,000人の学生を前に70分の「歌で聞かせる英語講座」を行なった。同様の試みは翌年4月に、100人のファンを対象に東京・九段でも行なっている。また、子供向けには、1979年の夏に「ワンツージャンプ!」(TBS系)の中で英語講座を行なった。1980年の1月には2冊目の英語教則本も出版している。


 1981年2月には、来日していたローマ法王の歓迎イベントの総合司会を担当した。カトリック教徒であるアグネスにとって、この行事に参加し、法王に身近に接することができたことは、大きな喜びであったようである。[法王と]


 また「女優」アグネス・チャンにとって印象深い仕事となったのは、同年8月に制作発表された、「マルコ・ポーロ」だった。制作費55億円、イタリア、日本、米国、中国の合作になる、この8時間テレビドラマへの出演が決ったことについて、彼女は「それは、私の容姿と私が演技ができることの両方の理由で映画に選ばれた、最初のものでした。」と語り、喜んでいる。またこの映画によって、レナード・ニモイやアン・バンクロフト、バート・ランカスターといった著名人たちと一緒に演技する機会に恵まれただけでなく、初めて中国大陸を訪れる機会も得ることができた。北京や佳林でのロケは、彼女が中国人であることを強く再認識するきっかけともなったようだった。もっとも、この彼女の中国大陸行きは台湾の不興を買ったらしく、以降彼女の台湾入国が認められなくなったという事態も招いた。(同ドラマは、翌1982年10月にTBS系列で3夜連続で放送された)[制作発表]

 しかしながら、このような活動のすべてを合わせても、留学以前のアグネスの活躍を知るファンにとっては寂しいものがあった。とくに、彼女の歌手としての商業的低迷には、苛立たしささえつのっていった。彼らのこの想いは、異様な事件として顕在化してしまう。いわゆる「脅迫電話事件」である。


 1981年ごろから、アグネスのコンサート開催に対し、いやがらせの電話が、プロダクションにかかるようになった。先に挙げた法王歓迎イベントにおいても、会場となった日本武道館に爆破予告電話があったのをはじめ、東京、大阪、神奈川、埼玉など各地のコンサート会場やテレビ局に脅迫電話が相次いだ。1983年4月には、大阪・北区のバナナホールで行われる予定だったライブコンサートが危険を配慮して中止に追い込まれている。このような事態に対し、警視庁捜査一課は、渡辺プロからの届けを受けて、1983年5月下旬以来電話の逆探知を続けた結果、同年6月4日夕、新宿区内の喫茶店から、「午後8時に爆発するよう(コンサート会場に)爆弾をセットした」などと電話をかけていた容疑者を、脅迫の疑いで現行犯逮捕した。


 逮捕されたのは世田谷に住む、当時24歳の男性郵便局員だった。調べに対しこの男は、自称「アグネスの熱烈なファン」といい、犯行の動機を「売れなくなったのに今もテレビや雑誌に出ているのはおかしい。香港に帰るべきだ」と供述したという。男は主だったもので約20回、脅迫的な言葉を使わない単なるいたずら電話まで含めた全体の回数については「あまり多くておぼえていない」と言っている。


 常軌を逸した事件ではあった。しかし、極めて倒錯した感情ではあるものの、思いつめたファンの心理として、理解できなくはない面もあり、この報道に接し、複雑な気持ちをいだいたファンも少なからずいたことだろう。また、狂信的ファンの凶行という意味で、1980年のジョン・レノン殺害事件を想起した人もいたに違いない。なおこの事件は香港でも報じられたらしいが、そこには「日本で成功した非日本人の危うさ」というとらえ方もあったようである。

 夢と希望を持って再開した音楽活動がうまくいかない。やりたいボランティア活動も満足にできない。そういった状況の中で、アグネスは次第にどうしていいか分からなくなっていった。周囲では、同期の女性歌手たちはどんどんと成長を続け、大人の歌手として活動をしていた。もともと成長指向の強い彼女は、それらの歌手を見て、自分一人取り残されていくような思いだった。「このまま歌手を続けるべきか」彼女は、はじめて大きな壁に突き当たったことを感じた。表には出さなかったものの、彼女の懊悩は深まり、深く沈んでいった。


 プロダクション側も、留学以前の人気を当てにして、勢い込んで再デビューをさせたものの、見事に裏切られた格好だった。彼らは、仕事のえり好みをし、売り上げに一向に貢献しようとしない彼女を、次第に疎んじはじめた。歌手あるいはタレントとしての彼女に見切りをつける、そんな雰囲気が出てきたといわれる。彼らと彼女の乖離は深まっていった。


 とはいえ、アグネスは決して忙しくないわけではなかった。相変わらずスケジュールに追われる日々が続いていた。それでも、日本における彼女の活動範囲は急速に狭まっていったのである。
 一方海の向こう、香港では相変わらず「歌手:アグネス・チャン」は健在だった。1981年、今はなき名門「リー・シアター」で初のリサイタルを開き、また同年、佳作「愛的咒語」をリリースした後、1982年には名盤「漓江曲」を完成させている。
 しかしその同じ1982年、国内においては本格的なコンサートは開かれず、シングルは出すものの、ついに1枚のオリジナルアルバムも出さずに終わる。彼女の国内における歌手生命は、まさに危殆に瀕していたといっても過言ではなかった。
 そんなアグネスを取り巻く状況に、変化の兆しがやってきたのも、実はこの年だった。

 その年の6月、アグネスのもとに、10人目とも11人目ともいわれる新しいマネージャが来た。彼女より1歳年上の、横浜生まれのこのマネージャは、それまでのマネージャとは一風変わっていた。今までのマネージャは、彼女に対して大人への脱皮を強要しようとしたが、彼だけはしなかった。それどころか、彼女の言い分に耳をかし、理解までしたのである。彼は言う。「キミのやりたいことは分かった。それをするためにも、まず、ノルマを果たそうじゃないか。」そして、彼女はその言に肯いたのである。


 その後、アグネスは精力的に「ノルマ」をこなしていく。野菜が並ぶスーパーの店先でも歌えば、バラエティ番組の出演も拒まなかった。そんな彼女を間近に見ながら、彼は考えた。彼女は単なる歌手、凡百のタレントではない。みずみずしい感性とともに、豊かな知性を持っている。さらには、国際経験も豊富である。これを彼女の活動に活かすことができたら・・・彼の、彼女に対するプロモーションの方向性が、次第にはっきりしてきた。


 アグネスのその後の活躍を見ると、彼が目指していたのが、国際感覚豊かな知性派マルチタレントという、今までにあまり例のないタイプのタレントの実現だったことが分かる。
 その年、1982年の暮には、スペースシャトルに絡む米国取材のレポーター役をとってきている。また、当時人気のあったクイズ番組「なるほど!ザ・ワールド」のレギュラー解答者のポジションをとり、彼女の新たな一面を全国に紹介させている。また、女優としての彼女にも注目し、NHKの大河ドラマ「山河燃ゆ」の出演も勝ちとった。[NASAにて]


 もう一つ重要なのは、彼女に本格的な執筆の仕事をもたらしたことだ。それ以前も本は出していたが、彼は彼女を活かした、多彩な内容の執筆活動を求めたのである。その内容は、中国料理であったり、香港紹介であったり、また、彼女の率直な意見や考えをまとめたエッセイ集であったりした。1984年には国際青年年の一環で募集された平和論文で、ローマ法王から特別賞を受賞し、バチカンで開かれた「世界平和シンポジウム」で司会進行を務めることにもなった。
 ちなみに、この「執筆による自己表現」という新たな方法は彼女の気に入るところとなったようで、1985年以降もさかんに本を出すことになる。


 もちろん彼は、歌手としてのアグネスのプロモーションにも力を入れた。1983年には本格的なコンサートを再開させているし、「小さな質問」および「Girl Friends」という、この時期の重要なアルバムを立て続けにリリースさせている。とくに「Girl Friends」は彼女のプロデュースになるものであり、多彩なゲストアーティストを迎え、全編緊張感溢れるアルバムとなっている。このアルバムは、彼女のそれまでの音楽活動の、ある種の総決算とも捉えることができ、彼女自身による「彼女らしさ」の表現、という意味で、最重要なアルバムの1枚ということができる。なお、香港でもこの時期「願イ尓繼續醉」をリリースしており、この年は彼女にとって、久々に音楽的に実りの多い年となった。


 翌1984年は、再びアルバムの発表がなくなるが、これは1982年とは異なり、女優としての活動やエッセイストとしての活動が活発になり、そちらに注力していたためと考えられる。
 そして、いよいよ1985年を迎えるのである。

 1985年は、アグネスの前半生のなかで最も重要な年になった。
 音楽的には、4月、中国宋慶齢基金主催の、子供たちのためのチャリティーコンサートを、北京の首都体育館で開催し、3回の公演で5万4千人を動員するという快挙を成し遂げたことである。これによって彼女は、同胞として、歌手として、祖国中国に認められたことを実感することになった。感無量だった。またこの成功は、彼女がチャリティ活動に本腰を入れて取り組む大きなきっかけにもなった。[北京コンサート]


 しかし、彼女の中で音楽的にもっと重要だったことは、これに先立つ2月、母親の生まれ故郷貴州に、母親とともに初めて赴いたときに起こった。
 アグネスは、村の子供たちに彼女の歌で迎えられたのである。彼女は我が耳を疑った。その曲は台湾でレコーディングしたものだった。大陸中国では台湾の歌は禁止されており、ましてやこの寒村に彼女の歌が知られていようはずがなかった。それなのに、どうしてその曲を子供たちが知っているのか。実は、これは母親が、香港から村の親戚に送った古着の中に、カセットテープをしのばせておいたからだった。子供たちは、いつか帰ってくるかもしれない彼女のために、そのテープで一所懸命練習していたのである。


 子供たちの素朴な、優しい歌声に触れて、アグネスは泣いた。


 職業歌手として、商業的成果が求められる重圧の中、それでも自己の音楽を追求していく過程で、久しく忘れていたものが、そこにはあった。歌が人を慰める。歌が人を結びつける。歌の持つ最も素晴らしい側面を、アグネスは再認識したのだ。


 歌の持つ力の、なんと素晴らしいことか。アグネスは、感動に震えながら、軽々しくも歌を辞めたいと考えていた自分の不明を恥じた。そして歌手であったことに感謝するとともに、この先も歌い続けることを心に決めたのである。


 アグネスは壁を越えた。このことは後の北京公演の成功にも大きく影響を与えたに違いない。また当然ながら、彼女の音楽活動の大きなターニングポイントともなったのである。
 なお、恐らく北京公演の成功によって、アグネスはこの年、中国においてチャリティ活動を行なった旨の認証を、当時の中国の指導者鄧小平主席から受けている。

 この年はまた、アグネスのボランティア活動にとっても、大きな転機が訪れた年であった。
 日本テレビ系「24時間テレビ」の総合司会として、アグネスは5月、エチオピアにある日本テレビ直営のシリンカ・キャンプを訪れ、アフリカの現状を目の当たりにした。その過酷な状況に、彼女は大きな衝撃を受けた。彼らを助けるため、一時は、キャンプにそのままとどまろうかと、真剣に悩んだようである。帰国後、アフリカ救済を訴えたのは当然である。この結果、彼女の優しい目は、今やアジアのみならず広く世界に注がれるようになったのである。[シリンカ・キャンプにて。子供たちに点眼するアグネス]


 シリンカ・キャンプでも、アグネスは歌の大切さを知ることになった。飢えと病気の蔓延する中で、子供たちに笑顔を取り戻させ、大人たちの目に希望の灯をともさせたのは、言葉でもなく、食料でもなく、歌、であった。食料や医薬品が肉体的な救済に必要なように、歌は精神的な救済になくてはならないことを、彼女は改めて認識したのである。[シリンカ・キャンプにて。子供たちと歌うアグネス]

 さらには、アグネスの長年の活動によって、香港のイメージが国際的に著しく高められたという理由で、この年の「香港の10人の傑出した若者(Ten Outstanding Persons in Hong Kong)」の一人にも選出されている。

 このようにこの年、1985年は、アグネスにとって素晴らしい年になったが、その最も重要なことが彼女のプライベートの領域で起きたことは、皆さんもよくご存じのことである。それは9月初めに出た女性週刊誌の記事によって、ファンの知るところとなった。この辺りは第14章に譲ることにしたいと思う。

 



 1985年はアグネスにとって大きな区切りの年になった。それは、それ以前の彼女の人生の収穫時期という意味で、一つの終着点であり、それ以降の活動の方向性が定まったという意味で、出発点となったのである。
 この節目の年、彼女がその過去に何を思い、その未来に何を託したか、それは彼女のみ知るところである。しかし、もし「”過去”は””現在”の出発点であり、”未来”への道標である」ならば、1985年の時点で、それ以前の過去が、彼女のその後の未来を暗示しているはずである。
 そして、未来は、まさにそのとおりに進んでいくのである。






 

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